四年 日記 2015年03月11日 東日本大震災から早くも四年。当時勤務先で地震にあった私は、机から落ちそうになるパソコンを必死に押さえていました。卓上の書類はみな落ち、本棚は倒れ、いつ終わるかわからない揺れに怯えました。電気がダウンした中、車のラジオやカーナビが頼りでした。しばらく辺りは騒然となっていましたが、誰かの声であたりは一旦静まります。「津波が来るぞ」会社は海岸からはかなり離れていたので、ここまでは来ないだろうと思いながらも皆、顔は強張っていました。余震も複数回あり、家にいる妻や子供のことも心配でした。何もかも復旧の目途が立たず、社長から家族がいる人は気を付けて家に帰るようにとの指示。会社に残る人たちに一礼、通勤に使っていた自転車で家へと向かいます。帰宅途中ではマンホールが隆起し、橋のブロックが波打ち、割れ、崩れていました。電信柱も心なしか曲がっていたようでした。当時住んでいたアパートに帰ると外見上の損傷もなく、家に入ってみると思いのほか物もさほど倒れたりしてはいませんでした。部屋にいた妻と子供に「大丈夫だった?」と声を掛けると、「この子、地震中ずっと寝たまま起きなかった」との事。あの揺れで?と焦った気持ちも少し和らいだ思いでした。ふと市外に一人で住んでいる母が気になり、皆で身支度をしてすぐに向かいました。何度かの余震の度、道路端に停車してやりすごします。「津波が空仙台港を襲った」と車の中で聴きました。実家へ向かう途中、道路は割れたり、陥没したりして通れないところも何か所かあったので迂回をしながら進みました。無事に実家につくと意外なほどなんの変哲もなく、安堵したことを覚えています。「多少物は倒れたけど、他は何もなさそう」その時はまだ若干水も出たので、そこまでの危機感もなく、とりあえず明かりや食糧などの確認をしました。食糧があまりないとの事だったのでとりあえず近場のコンビニに行ってみようという事になり行ってみると、大勢の人がコンビニに詰めかけ食料を求めていました。既にカップめんやミネラルウォーター等はなく、缶のリッツやその他お腹に溜まりそうな物を選んで購入。そのまま家へ帰ってみると、「水道がでなくなった」とのこと。出掛けにいつ水道が止まるか分からないから出しておいてと言ったのにも関わらず、出さなかったようで結局冷蔵庫内にあったジュースや風呂の水で水分を採ることにしました。あっという間に日が暮れ、ラジオを付けていると「海岸に多数の遺体が…」の声。こんなことが生きているうちに起こるなんて…これからどうなってしまうのだろう。そんな言葉が頭を過ぎり、どうすればいいのか分からない不安感。外の空気を吸いに出て見ると、辺りは真っ暗。街灯も何もついていない。いつも見ている夜空よりも、やけに星が輝いているように見えた。あの夜空がずっと忘れられません。とまぁ、当時の説明はこれくらいにします。あれから四年…早いですね。本当に大勢の方が亡くなりました。今日は勤務中に亡くなった方々へ黙祷を捧げ、ご冥福をお祈りしました。私が住んでいる所はだいぶ復興も進んだように思いますが、それでもまだまだ問題はあるようです。本当の復興を迎えるのはまだまだ先だと思いますが、早くその日が来るのを願っています。 [0回]PR